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アルブル通信・感動エッセイ 2018年

2018年3月号 「「見切る」ことができるか」

プロ棋士の対局は、長い。
 朝の9時、10時から始まって、深夜の12時、1時までかかったりすることもある。二日制の対局もある。途中、食事休憩が昼と夜に1時間ずつあるが、それを除いても、一日に10時間以上かけてひとつの勝負がつくことも珍しくない。
 その中でひとつの場面で長く考えること――長考することがある。うっかりすると、1時間とか2時間。これまでで私が一番長く長考したときは、4時間弱かけた。しかし、それで素晴らしい手を指したかといえば、きわめて平凡な一手で、これなら3秒考えただけでも指せたというようなものだった。
 逆に、相手に4時間ほど考え込まれたこともあった。
 最初の2時間くらいはそれに付き合って、「どんな手でくるのだろうか」などと考えたりもしていたが、長くなり、時間が進むにつれ、およそ将棋とは関係ないことを考えていた。
「3時間あれば日本中どこへでも行けるな」
「お昼ご飯、何食べようかな」
「このまま永遠に指してくれなかったらどうなってしまうだろう」
 といった、本当にたわいもないことだ。
 長く考えればそれだけ思考が深まっていい手が指せるのか、いい決断ができるのかというと、必ずしもそうではないような気がする。
 将棋の世界には、「長考に好手なし」という言葉もある。長く考えたからといっていい手が指せるわけではないのだ。むしろ、長く考えているのは迷っているケースが多いからで、創造的に考えていることは少ない。
 たとえば、Aという選択肢を選ぶ。そこから先を何手か読む。それを選択肢Bにしたらどのように変わるだろう、といった具合に、可能性のありそうな手筋を選んで何手か読む。すると、たいてい30分もすれば、それぞれの10手先の展開までは到達することができる。
 さてそこで、最終的にそのAという選択肢を選ぶのか、あるいはBを選ぶのかという段階になって、迷ってしまうのだ。選択、決断をためらってしまい、踏ん切りがつかずにその決断を放棄してしまう。そして、もしかしたらとまた違う可能性を探し始めたり、両方の選択をもう一度なぞったり・・・・・・とするうちにじりじりと時間が過ぎてしまう。
 つまり、ある程度の道のりまでは来ているのに、そこから先を、考えているより迷っている、決断しきれずにいるだけというケースが非常に多いのだ。
 対局中に、自分の調子を測るバロメーターがある。それは、たくさん記憶ができているかとか計算できるかとか、パッと新しい手がひらめくかとかいったことではない。
 そうではなく、「見切る」ことができるかどうかだ。
 迷宮に入り込むことなく、「見切って」選択できるか、決断することができるかが、自分の調子を測るのに分かりやすいバロメーターになる。
「見切る」ことによって選択できる、決断できるのは、調子がいいときだ。すぐに立ち止まり、迷ってしまいがちになるのは調子が悪いときだろうと思っている。
「見切る」とは、必ずしもこれで勝てるとかこちらが正しいといった明快な答え、結論ではない。「分からないけれども、まあ今日はこれでいってみよう」とか、「今回はこっちを選ぼう」と、絶対の自信はなくとも思いきりよく見切りをつけることができるかどうか。それは、直感を信じる力の強さにも通じているのではないか。
 直感は何かを導き出すときだけに働くのではない。自分の選択、決断を信じてその他を見ないことにできる、惑わされないという意志。それはまさしく直感のひとつのかたちだろう。
 私たちはどうしても、目に見えるものに意識を持っていかれてしまう。目に見える原因、目に見える根拠、目に見える成果。そして、私たちはともするとそれらにふりまわされ、自分の選ぶべき行動、進むべき道が分からなくなってしまう。
 しかし、どんなにデータを駆使していても、そのデータはいま自分が向き合っている局面のものではない。


 そこに気付きさえすれば、何かの判断をする、決断をするときに、目の前に広がる現象に囚われ、目に見えるものだけを判断材料として、その選択にのみはまり込んでしまうことなく、自分自身の中に蓄積されたものに目を向けることもできるのではないだろうか。
 それまでの知識や経験などをもとに、自分自身の中に蓄積されたもの。将棋の実戦では、それらを集約し自分で計りながら、指す。意識的にそうすることもあれば、無意識のうちに湧き上がるものにしたがっていることもある。
 そのこと自体も蓄積になるだろう。それは自分の調子を客観的に見る、大局観につながる力の養成にもなるし、逆に見切りがつけられない自分、迷っている自分を自覚しながらそれでも指し続ける集中力を養うことにもなる。
 そして、その経験は確実に力になる。
 将棋のプロに待ち時間が長く、長考することができるようになっているのは、それに耐え得るだけの力や漠然とした決断を受け入れるために必要な〝覚悟〟のための時間を与えられているということなのかもしれない。
 
直感力   羽生 善治 より
《工事部》渡部 亨 選

2018年3月号 「「見切る」ことができるか」