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アルブル通信・感動エッセイ 2018年

2018年2月号「すこやかに」

すこやかに

 子どもが生まれたとき、命の他にはなにもいらないと思った。
 すこやかに育ってくれたら、なにもいらないと。
 そのことだけは変わらないようにしたいと思った。
 それでもいろんなことが毎日起こり気持ちは当然ぶれてくる。たとえば子どもがぜんそくで夜も寝られない日々が続いたり、反抗的な時期でひどい言葉を次々に口に出したりするようになってきたり、泣いたり大げんかしたり本気で感情が動くことは、今だってしょっちゅうだ。
 しかも本人が「ママは僕が健康でいればなんにもいらないんでしょ」とか言いながら、鼻くそをほじりながらゲームをして全然勉強しない姿を見ていると、ばかばかしくさえなってくる。
 それでもだ。
 震災を体験してますます思うようになったのは、人の命はほんとうにわからないということ。これまでもいつだってそうだったはずだし、理屈では、頭ではわかっていた。明日はどうなるかわからない、だから今日を生きようというのはだれだって知っているし口にすることだ。
 しかし、今はもっとリアルにその感じがわかる。触れるくらいに生々しく、自分が来年ここにいられるかどうかわからないと思う。
 そう思うと、子どもがすこやかでいてくれたら、ほんとうになにもいらないと心から思えるようになった。生意気でもいい、あほでもいい、いろんな人に怒られたり忠告されたりモンスターペアレンツ呼ばわりされたり、親の七光りでなんとか生きてるとか言われたりしてもいい。そのままでいい、とにかく生きていてほしい。
 すこやかで、自分以外の命を大事にしてくれるようであれば、なんとかなる。
 そういうふうに本気で切り替えないと、これからの時代はだめだと肌身で感じるのだ。
 先々のことを考えて、いやいやでも準備して、我慢してもふんばる…それはいつか私の子どもがほんとうに好きなことのために、ふだんの百倍も千倍もがんばって勝手にやるだろう、そう信じることがいちばん大事なのだと心から思えるようになった。信じていれば、必ずそのようになると信じること。人を信じるというのはそういうこと。
 そして、もしだめだったとしても「じゃあ、自分が死んだあとはなんとかするだろう」とどこかで笑えるように、自分の人生を悔いなく整えておくこと。
 そして彼がしたいことのために、子どもの健康状態に配慮すること。
 それしかない。
 そこに至るまでは、どこかで子どもに期待をしていたように思う。
 信じると期待は違う、そう思う。

 その目で世の中を見てみると、自分の伴侶に関してはどうだろうか。
 生きていてくれるだけでいいと信じきれるだろうか。
 おかしな期待をしていないだろうか。
 もしも、だれもが「自分のことは自分でしっかりやる。でも、愛するあなたにはとにかくすこやかでいてほしい」と思える時代になったら、どんなにいいだろう。
 それが遠い夢だとわかっていても、やっぱりそれを夢見て、自分の家族から、まわりの人から、なるべくそう思えるように今日も種を蒔いて育てていきたい。
 すこやかさの種を。

「すばらしい日々」 よしもとばなな 著
≪工事部≫ 磯貝 春江 選

2018年2月号「すこやかに」